昭和52年08月12日 朝の御理解
御理解 第89節
「此方の道は傘一本で開くことができる。」
ご理解第百節に、金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃとあります。子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃと。これはおかげではなくていうならばお徳です。いうなら、家繁盛子孫繁盛のおかげを頂くと言う事はお徳を頂かなければ出来ることじゃありません。いうならばお徳の道です。その時その時の行き当たりばったりのおかげを頂くというのではなくて、金光大神はどこまでも家繁盛子孫繁盛のその道を教えられる。だからその家繁盛子孫繁盛の道というのは金光大神が教えておられる。
御神徳を頂いていく道である。御神徳を頂かなければ家繁盛をしても子孫繁盛にはなりません。親の代では大変おかげを頂いておってもそれが子に孫に伝わっていかなければ子孫繁盛とはいえません。だからどうでも子孫繁盛の道を教えると。今日のご理解に此の方の道は傘一本で開く事が出来る。此の方の道は傘一本でおかげの道であり同時に、お徳を頂く道を開く事が出来ると言う事で御座います。
そこで私は思うのですけれどもね、これを此の方の道は、合楽理念一つで子孫繁盛家繁盛の道を開く事が出来る。おかげの道であると同時にお徳の道であるというふうに頂いたらよいと思うのです。沢山の御教えがあります。その御教えをね、愈々の道絶対の道それが合楽理念です。ですから合楽理念のマスターそれから、合楽理念の信心が身に付くという。血になり肉になると言う事。合楽と言う事は、合楽の地名ですけれども、是は非常に深い神様の思いが表現されて合楽。
ただ拝みあうというだけではなくて、拝み合うだけではなくて、そこと拝みあって交流するものが合楽である。物を拝み人を拝み勿論神様を拝み。だから拝むと言う事は尊い事ですですから拝む所から始まるのですけれども、拝んだら相手に通じる交流する拝み方でなければいけんのです。それにはね少しは難しいですけれどもね、難しい所が拝めれる様になりますと一切が見やすくなります。
合楽理念はそんな感じが致します。難しい実際なら難しいごとあるけれども、難しいところを体得致しますと後は見やすくなって来ます。矢張りこれは私共が一生かかって稽古するというのですから、簡単なみやすいと言う事ではないです。それをなら合楽ではここ私がね、いうなら三十年間の信心を元にして、金光教の信心のいうならば生粋、言うならばいよいよ間違いなしに家繁盛子孫繁盛の道に繋がる頂き方。
それも漠然としたものではなくて、それを簡潔にして分かりやすく、行じようと本気になったら誰でも行じられる行き方を説いてあるのが合楽理念です。昨日研修の時に学院生皆帰ってきておりますから皆一緒に、まあ今日は学院から帰って来ておる人達の、話を聞く事にしようと言う事です。どうもその気持ちからか知れんけれども、合楽の修行生だけには非常に冷たい。
点数をくれるでも非常に厳しい点数だと。まあ自分たちの勉強の足らん事は言わずにそういうふうにいう訳ですよ。だからそげな事をいうたっちゃおかげにならん。何時だったかこの頃、そういう意味の事を手紙によこした修行生がありましたから、神様にあのお届けをさせて頂いたら、特訓と言う事を頂いた。合楽の信者、合楽の修行生だけは神様が特別の訓練をして下さっておるのだと。
又事実がそうだから、特訓として頂けと私が言うてやった。してみるとその厳しく当たられる先生も、まあ例えばそんな事もなかろうけれども、そう厳しゅうなら合楽のものにだけには、点数は厳しいと言う事であっても、厳しかってもそれは特訓を受けておるんだと思うたらその事が有り難いのであり、その先生が神様に見えて来るじゃないかと。それが合楽理念だぞと言う訳なんです。
ですからなら今ここから行っております修行生の方達がその特訓を受ける事を、もしこれが授業料でも納めねばならないものならば、人が百円納める所は二百円納めてもそこのところを、受けたいという気持ちにならせて頂く。だからいうならば難しいですね。あの先生が俺達の事ば目の仇の事思うておる、と思う中には。もうそれこそあの、あの先生が話す時には、寝むっとらんでも眠ったふりをしておくちいうごたる気がするわけ。もう信心はいうならば聞かん。
またはその時間に出らないと言う様な事にまでなり兼ねないのですけれども、特訓を受けるんだという頂き、それが実は本当なのですから、それが本当が本当と分かった時にです、初めて先生を拝むことが出来る。そこから特訓を受けておる者だけがコロッと、いうならば図抜けて信心が進んでいく。そうなりゃ特訓の先生もいうならば認めなさらなければいけんのだ。合楽の修行生は違うと言う事になるだろう。
いうならば拝みにくいところを拝ませて頂くという信心が出来たら、後は見やすいです。そういう拝み方でなからなければ神様には通じんです。自分の都合のよか事だけば拝む。自分の好いた人だけば拝むと言う事だけでは本当の事じゃない。嫌な事苦しい事。辛い苦しいと言う様な事でもです、特訓を受けておるのだという頂き方をもって頂くならば、むしろお礼を申し上げねばならない。その時に初めて交流するのです。それこそ神様が喜びなさるから、神様の喜びがこちらの感動となって写って来るのです。
私だけがどうしてこんな難儀な思いをしなければならんのだと。それが難儀ではない。神様が特別を賭けて下さっての働きであると解った時に、それが神愛であると解った時に、その神愛にお礼を申し上げねばおられない。そういういうならば拝み方なんです。そこから必ず、神様が感動まします。その感動がこちらに伝わって来た時に、初めて合楽と言う事になるのです。だから合楽と言う事は大変意味が深長なのです。
そういう拝み方の出来れる理念が合楽理念なんです。だから合楽理念一つで言うならば道が開けると言うてもどういう道かというと子孫繁盛家繁盛に継ながる道、お徳を受ける道おかげを頂く道が開けるのですから、どうでも合楽理念の言うならば本気で行者にならせて頂なければならんと言う事になります。合楽理念とはどう言う様な理念かと。合楽理念とは何ぞやと、例えば問われた時にです、教祖の神様が教えておられる御教え、言うならば教典の全て。それを全てをですおかげの頂けれる頂き方。
御徳の受けられる頂き方に、頂き方を言うならば発見した。みつけた。ただ御教えを難しく、おかげにも継ながらなければ、お徳にも継ながらない様な説き方頂き方では駄目なんだ。教祖の一言一言が例えて言うとこの御教えではない、ここに汲んであるご理解第何十節とね、此の方の行は火や水の行ではない家業の行ぞというのが三十九節にありますよね。家業の行と仰るが。
ただ仕事しておれば家業の行というのではない。その結論一日を締めくくった時に、今日も結構な修行をさせて頂きまして、言うなら家業の行をさせて頂いて有り難う御座いますと、心から湧いて来る有り難さというものがなからなければその人の家業の行にはなっておらんのだ。お前の我情我欲で働いただけなんだと言う事になる。有難いという答えが出なければ、その発見を39節というその39から、サンキューと言うお気付けを頂いては、はあこれは最後にサンキュー。
有り難いというものがなからなければ家業の行にはならないと言う事なんだとその、39節一つでもですおかげの頂けれる、お徳の頂けれる頂き方。それはお言葉だけではない。言うならちょうど、39節と言う事になっておったその、39節と言うその事からでも、おかげの頂けれる頂き方をしなければいけないのだと言う事なんです。いうなら教典の丸暗記をしておってもです、おかげも頂けないお徳も頂けない頂き方では詰らん。頂き方なんだ。それを合楽では様々な信心を通らせて頂いて。
必ずおかげの頂けれる頂き方。御徳の頂けれる頂き方。例えばこれを食べ物に例えますならば、いうなら、ここに一匹の鯛がある。ああでもないこうでもないと色々味付けよるうちに塩が辛うなったり砂糖が効き過ぎたりして、しまいには食べられんごとしてしまう。まあそんな感じがね、今の教団の中にはこの教典と係り合いの中に感じるです。頂けないものなってしまった。
あんまりああでもないこうでもないと砂糖が入れ過ぎたけんで、今度は醤油ば入れる。醤油ば入れ過ぎたけんでまた砂糖を入れる、また水をする。もう煮詰めしもうてから結局食べられんごとなってしもうとるという感じです。そこであただにね、教祖金光大神、金光大神とか金光大神覚えとか、金光大神外説金光教とかそういうものに今度は移って来た。教典というものが軽くみられる、もうおかげを頂けんようになったからです。この教典一つでおかげを受けられる、徳が受けられる。
成程金光大神も大事、外説金光教も大事。言うならば金光大神に関する所の、色んなその教えというものが決して要らんとかと言う事じゃありません。けれども徳を受けると言う事おかげを受けると言う事はもう、御教え以外にないのです。しかもそれがどの一カ条どの一節でもです、お徳が受けられる生き方おかげの頂けれる頂方。それを私の三十年間の苦心の結果がです、最高の味を付けたと言う事になるのです。合楽理念とは。言うならば味付け加減一つでです。
頂ける又は頂けないと言う事になって又は、はあ天下の珍味と頂いたり、是はとても辛うして食べられんと言う事なったりする訳なんです。なら鯛一匹と言う事には変りはないのです頂き方なのです。最近ではその頂き方というだけではなくて、愈々包丁が冴えて来た。言うならばさっき申しました39節、是はもう教えではないのです実を言うたら。けれどもなら何というですかね、お刺身ならお刺身の横にパセリが付いておったり、わさびが付いておったり、千切りの大根なら大根が付いて。
まあつまが付いておったり致ますでしょう。そういうものまでもが合楽理念の中には見事に出来上がったという感じが致ます。教祖の御教えのいうならば頂き方は、もうこれにここに極まったというのが合楽理念です。こんなものが頂けれるかと言う物でも、工夫を致しますというならば食通というですかね、又はその名人の板場さんというでしょうか、よくあの東京の稔さんが参りますとここで、握りをやってくれます。その海老の踊りなんかを是は勿論どこでも出しますから素晴らしいです。
所がその頭の所を必ず塩焼にしてだします。珍味です。あわびなんかあの寿司に握ったら、後はもつをちょっと酢か何かを落として食べさせてくれる。ちょっとした味付けでね、こげなものが汚のうして食べられるもんかと言う様なものがそれこそ最高の珍味として頂けれるのです。だからこげなものが頂けれるかと言う様な物にでもです、言うならば色々に工夫をして、言うならば最高の味に仕上げてある味の付け方をしてあるのが合楽理念です。皆さんも教えを自分の言うならば。
まあ口に応じてとでも申しましょうか、この口に応じてです、最高に美味しい物にして行くと言う事。最高に美味しいものにしていくと言う事。本当に美味しかったと喜ばせて頂く時にです神様が喜んで下さる。普通なら是を捨てるごたるところを、最高に美味しいものにして生かしていくのですから、神様が喜びなさらん筈がない。そこに交流がある。美味しいという味付け。御教えでもそういう美味しい味のつけ方。いや教祖様の御教えは絶対おかげに繋がる。
又はお徳に繋がる頂き方をそこを求めに求めて、なら合楽理念が出来上がったのです。だからその味の付け方をです、なら私が皆さんに教えさせて貰うのですから、その味の付け方を覚えさせて頂くとこういう嫌な事だと思うておった事が。昨日私は変わったお届けをさせて頂いたのですけれども、ある人間の何というでしょうか、まあ所謂難儀なお取次ぎをさせて頂いたら、にんにくをすって生姜をすって少し入れて、おつゆを作ってその中に肉を浸して入れておる所を頂いた。
いうならニンニク醤油と言う訳です。是は私共今はあんまり北京時代はそういう頂き方を致しました。ニンニクと生姜醤油の中に漬けておく。美味しい焼肉が出来るです。その人が言うならばニンニクの様な臭い事をしでかしたのです。そしてそれはどこまでも自分の我情を通したのです。その事に気付いて昨日はお詫びに出て来たのです。本当に私ばかりは何時も失敗ばかりをしてと言う様な事でした。
けれどもその御理解を頂きましたからです、それが例えば美味しかったならば、お礼を申しあげるべきばいと私は申しました。それが美味しかったならばお礼を申し上げる事だと。生姜ということは自分の我情と言う事じゃろうけれども、人間らしい生身をもっておる者の事ですから、どこにお粗末ご無礼があるやら分からんとお詫びをするだけではなくて、それはむしろお礼を申し上げる事だよと。
それこそ、晴れ晴れしい顔をして帰りました。もうお参りをしなければ出来ん、月に何回か参ってくる。お参りをして来るたんびに心が軽くなって帰る。なかなか自分の商売上止むに止まれんいろんな問題がそれにはあってまあ、ああなってこうなった訳なんですけれども。けれどもそれが唯お詫びというだけではなくてです、お礼の申し上げなければならないと分かった時に。
自分の心は詫びて詫びても許しを頂けない時程苦しい事はない。けれどもお礼を申し上げねばならないと言う事になったら、そういう素晴らしい味の付け方を合楽では教えられておるのです。ある意味で一切の事に御の字をつけて頂くと言う様な事はその事に入るのです。それをおかげを落とした、お気付けを頂いておると言う様な事になるのではなくて、むしろお礼を申し上げるという生き方です。
合楽理念の中には、そう言う事も説いてあります。全ての日常生活の中におきて参ります様々な問題の頂き方。是はどげな風に味をつけて頂いたら美味しいじゃろうかと、どげなふうに味を付けたならば、こういう嫌な問題を有り難いとお礼を申し上げれるだろうかと。それを私は昨日学院生に申しました様に、それはあなた方に対する特訓なんだよということなんです。と頂いたらその事にお礼が言えて、所謂ファイトもまた湧いて来る。人が十習う所は二十も習わせて頂くようなものだ。
習いに行っとるとじゃないか普通でなら腹の立つ様な問題をです、これは合楽理念ではどう説いておるか、と合楽理念を紐解かせて頂くと色々勉強して来た事からずっと思うてみると、本当にお礼を申し上げねばならんような事に腹を立てておる自分に相済まんという心も起こって来るし、またその事に対してお礼が言えれる様な心の状態。そういう心を開かせて頂く事が合楽理念なんだということなんです。
いうなら腹を立てて受ける様な事をです、ここで、一口言わなければおられんと言った様な事をじっと押さえて黙って治めるという生き方。そこにはもう、言うて治めておるくらいな事ではない、自分自身もそれによってお徳を受け、相手もよりおかげを頂く道があるのだ。それは黙って治めるということなんだ。はあここは合楽理念は黙って治めると説いてあるから黙って治めてと金光様を唱えて黙って治めておると、あくる日になりゃあくる日になって、後になって言わんでおってよかった。
自分もおかげを頂いたが相手もこんなおかげになったと言う事に必ずなって来るんです。昨日森部の高山さんがみえて、こういうお知らせを頂いておられる。口を開いてままになるより心を開いてままになれと頂いておられる。ままになろうと思うてこうやって大きな口を開からとやこやいうて自分がままになろうというよりもです、口を開かずに心を開いて、ままになれと仰る。
だからこの問題はここは一口言うておかなければいけんと言った様な事でもです、口を開かずに心のほうを開いて、そう心の開き方をです、素晴らしい表現で合楽理念はね、ここはこういう味付けの仕方をしたらこういう風に心が開けて来るぞと説いてある訳なんです。口を開いてままになるより心を開いてままになれと。こう言う事を今までの金光教は絶対言うて来なかった事ですね。むしろ金光教では有言実行だというふうに言って来たんです。素晴らしい事を人に伝える。
言うて聞かせる。そしてして見せる。そして褒めてやれ何かそういう一つのまあ、人を教導するでも、そういう教導の仕方があるのだと説いて来たですね。所が合楽ではそうじゃない。合楽理念は黙って治めると言う事。黙っておったら相手が、愈々のぼせ上がってしまわせんだろうかと思うけれども、そこは神様を信じきっての黙ってですからね、だから神様の働きが頂けるから、自分もそれで辛抱力が頂けれるだけではなくて、相手もそれ以上に、おかげを頂けていく道、をちゃんと開けて来るのです。
だからそういう生き方をね、愈々言うならば身に付けさせて頂く。是はもう味付けと言う事は、銘々中々いうなら本当にコツですからね。もうちょっとしたコツあいで美味しくなったり美味しくなかったりする様にです。そこの稽古をさせて頂いて段々腕が上達して来るとです、一人前の調理師というとか、家族のものが家のお母さんが作ったとが一番美味しいか、と言う様な物を作って行く事が出来る様になるでしょう。そこに家族の者がお母さんが作ったのがと言う様にです。
お母さんの言う通りさえしておけばと言う事になって来るのです。そこん所の稽古はまあ限りがないのですけれども、合楽ではもうここに絶対の一つの味の付け方と言う物がです、示されておるのが合楽理念です。そういう意味でね教祖様の御教えの全てがおかげが頂けれる、お徳が頂けれる頂き方をしなければならない。どう言う物であってもその頂き方一つで、言うなら味付け方一つで、美味しくもなりゃ食べられん様にもなる様に、合楽理念はもう一切のものを有難く頂けれる味付け方を説いておるのです。
だからそれに一生懸命取り組んでおかげを頂いて参ります時にです、例えば神様の特別な特訓を受けておる時にです、歯痒い思いをしたり情けなかったりする様な事ではない。もうそれこそ愈々勇気百倍、愈々それに向かってそれを美味しい物にしていこうとする精進。その精進を惜しんだら、言うならば合楽理念を身に付けて行く事が出来ません。此の方の道は傘一本で開く事が出来る。此の方の道は、合楽理念に結集して集めて、この合楽理念だけを、言うならば体得して覚えて。
自分のものにして行ったら道が開ける。それはどういう道かというと子孫繁盛家繁盛の道が開ける。言うならば、それは言葉を変えると、お徳を頂く道が開けると言う事になります。愈々味付け方味の付け方頂き方をです、勉強していかなければなりません。限りがありませんから。そこで合楽では味の付け方頂き方にです、愈々工夫に工夫を凝らせて頂いて毎日毎日新たな発見を皆さんに聞いて頂いておる様な訳ですよね。
どうぞ。